ある休日

こんにちは!ゼロカラカンパニーの月岡です。
ゼロカラシティにご参加いただきありがとうございます。

このコラムは、ゼロカラシティのメンバー限定コンテンツです。内容はメンバー以外に漏らすことのないようお願いします。

 

さて、今回のテーマは『ある休日』です。

 

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今日のゼロカラシティ通信はいつもと趣向を変えて、日記を書いてみます。

ではどうぞ。

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ゼロカラカンパニーには定休日がない。

予定がない、あるいは体調の悪い日が自然と休日になる生活を、もう3年ほど続けている。

 

この前の日曜日は大切な予定があった。「同窓会ライブ」である。

私は大学時代、弾き語りサークルに所属していた。そのサークルでライブハウスを借りて、現役生と卒業生が一緒にライブをするイベントが開催された。なんと記念すべき第一回ということで、私はこれをかなり楽しみにしていた。

 

ギターを背負ってライブハウスに赴くと、懐かしい顔ぶれが揃っていた。憧れの先輩や、よく一緒にライブをした同期。何個下だったかうろ覚えの後輩や、初めて見る現役生が楽屋に各々の面持ちで佇んでいた。

ライブは文句なしに楽しかった。身内しかいなかったので本当にしょうもないMCばかりした。「こんにちは、10年生の月岡です」「大学4年間が遠い昔のようですね。あ、留年したから5年間か」みたいなユーモア、懐かしかったな〜〜〜。存分に客(=友達)に甘やかされ、快楽物質で脳みそが溶けるのを感じながら打ち上げに繰り出して6時間飲んだ。

 

飲み会では、皆が社会人になっていて驚いた。学生の頃は皆でひとつのテーブルを囲んでいても2〜4人のグループに分かれてそれぞれ会話していたような気がするが、今回は全員でひとつの話題を共有する形で飲み会が進んでいった。いつの間にこの形に変わったんだろうな。

でも、先輩が後輩に「ありがたいお言葉」を授ける文化は変わっていなくておもしろかった。「君はもっとピッチを丁寧にとったほうがいいよ」と20歳に言っている34歳の先輩を見て、うわ、こいつ変わんね〜〜、と思った。そのときの後輩のかったるそうな顔は、かつて私がしていた顔そのままだった。

 

卒業生の中で、今でも音楽を続けているのは私ともう1人だけだった。他は皆音楽を辞めており、曲を作ったりライブをしたりとは無縁の人生にシフトチェンジしていた。今日のために子供の世話を妻に任せてきた人や、ギターを売ってしまったため急いで安いモデルを買ってきた人もいた。

 

打ち上げでは全員の口から「このイベントは続けよう」という意見が飛び出した。ただの飲み会なら「この会は年一で必ずやろう」とはならないのに、この日に限っては皆が続けようと思った、ということは皆、結局音楽が好きで、音楽に飢えていたということだ。

場所があることって本当に大切だなと思った。この人たちはきっと、いくつになっても場所さえあれば音楽を続けるんだろうと思った。そして、私の続けているゼロカラコンピ、あるいはゼロカラシティが誰かにとっての「場所」になっているのだと思うと背筋が伸びた。

この日、演者のクオリティは千差万別で、ギターを満足に弾けない初心者からプロ顔負けのパフォーマンスをする者まで様々だった。それでも皆輝いていたし、皆満足げだった。音楽を続けるのにはスキルよりも何よりもまず場所が必要、という自説が強化された一日だった。もっとがんばろう、と素直に思った。

 

 

翌日の喉の調子は最悪だった。乾燥したライブハウスに6時間いて、その後6時間酒を飲んで大声で喋り続けたのだから当然である。

声が出ないことには仕事ができないので、大変申し訳なかったがその日のレッスンや定例会はすべてキャンセルさせてもらった。ということで、この日は急遽休日になった。原因は「はしゃぎすぎ」。情けない男だ。

 

声がカスカスなだけで身体は元気だったので、せっかくだから外に出てリラックスしようと思い、電車に乗って温泉施設に行った。私はこの、湯と休憩所と漫画と館内着があるタイプの温泉施設が大好きで、暇さえあれば行きたくなってしまう。電車賃とあわせて1500円かからないのもすごい。1500円で手に入る幸せの最上位じゃないか?

とはいえ、最近はバタバタしていたので来るのも3〜4ヶ月ぶりになってしまった。久しぶりに入った温泉はそれはもう……それはもう最高だった。しかもこの日は寒かったので沁みるわ沁みるわ。内臓に伝わる熱を感じながら、肌との境界線が曖昧になるまで湯に浸かった。

 

露天風呂では大学生が騒いでいた。今、大学生は春休みの真っ只中だ。だから月曜の昼からグループで温泉に来ることができるのだろう。なんて素敵な青春なんだ。昨日大学時代の人たちと過ごしていたせいでノスタルジックになっていた。自分の青春を思い返してみれば、狭い部室で弾き語りしていた記憶と、狭いワンルームでDTMと格闘していた記憶しかない。

露天風呂の大学生は「インターンはどこに行くべきか」について議論を重ねていた。聞こえてくる会話から察するに、たぶん同じ大学の後輩だ。私が音楽と相撲をとっている間に、こういう時間を過ごしていた人もいたんだと思うとなんだか愛おしくなった。

無性に話しかけたくなったのをグッと堪えて風呂を出た。行かなくてよかったと思う。全裸で声がカスカスの自称先輩なんて気味が悪くて仕方がない。

 

 

風呂を上がったあと、休憩所でゆっくり読書をした。最近はめっきり歴史にハマっていて、この日は「銃・病原菌・鉄」を読んだ。昨日のライブにも来ていた大学時代の友人から勧められたものだ。

 

私は学生の頃より今のほうが勉強熱心だと思う。いや、熱心というか、今のほうが勉強が楽しいと感じられる。

学生時代の「何かに必要だからする勉強」はつまらなかった。単位のため、資格のための勉強が楽しかったことは一度もない。

でも、「何か」が「音楽」や「大学合格」になった場合のみ私は楽しかった。つまり、「自分の興味のある何か」を成し遂げるための勉強は楽しく、そうでないものはつまらないという単純な二元論で、私は勉強をとらえていた。

 

しかし今になって気づいたこととして、勉強の楽しさには別の指標もある。「何のためにもならない勉強」というジャンルがあり、しかもそれはかなりおもしろい傾向にある。そのおもしろさの正体は、社会で成長するにつれ削ぎ落とされていく感情であり、誰もが赤子の頃に持っていた知識欲だ。純粋な「知りたい」という人間欲求。このおもしろさの前に「何かに必要だからする勉強」では到底太刀打ちできない。

学生時代の私はそこに到達できなかった。あんなに時間があったのに。1年のうち4ヶ月が休日の時代にこの境地に達していたら、今とは全然違う人生だっただろうと妄想して少し歯痒くなる。別に今の人生に後悔はないけれど、アカデミックな人生もきっと楽しかっただろうなと思う。

 

私が歴史の勉強をしても、ゼロカラカンパニーの売り上げが伸びることはない。そんな時間があれば空間オーディオやAI作曲の勉強をしたほうが良いことはわかっている。客観的に私を見たときに、歴史にハマっている今の状況は少々滑稽である。

でも、私はそういう「目的のない知識」こそ大切にしたい。最短経路で生きていくのはどうも好きになれない。ムダなことをしたいし、贅肉をつけたい。

これは突き詰めていくと「いい音楽を作りたい」という下心につながっている気もする。ムダからはいい出汁がでるからだ。

この下心すらなくなった後の、真の意味で目的のない勉強もいつかやってみたい。音楽を続けながらその境地に行くことは果たしてできるのだろうか……。

 

 

温泉施設を出ると外はまだ明るくて、確かな春の接近を感じた。腹が減ったのでコメダ珈琲でカロリーオーバーなエビカツパンを食べて、しばらくぼーっとしてから帰った。日月と休んでしまったが、怒涛の4月に向けての助走ということで自分を許した。

 

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