私の仕事

こんにちは!ゼロカラカンパニーの月岡です。
ゼロカラシティにご参加いただきありがとうございます。

このコラムはメンバー限定コンテンツです。
内容は外部に漏らすことのないようお願いします。

私の仕事

9月以降に出るさまざまな音楽コンテンツの準備が進んでいる。

人生における音楽活動の比重を増やすべく、5月のワンマンライブが終わってからそのためのコンテンツを作り続けており、放出直前の今は作業量が最も多い時期だ。コンテンツはただ出せばいいと言うものではない。いつ出すか、どう出すか、誰が出すか、どこで出すか、なぜ出すか。5W1H的な発想でプロモーションを綿密に考える必要があって、それを考える専門の機関が「レーベル」なのだが、うちは自主レーベルなのでそこも自分で考えなければならない。

自分ひとりで自分のプロモーションのことを考えているとたまに虚しくなる時があるので、私と同じ目線で真剣に音楽活動について考えられる人間が隣に欲しいな、と思うことがある。真っ先に思い浮かぶのはバンドメンバーだが、彼らには楽器の練習に全集中してほしいのでむしろ任せたくなくて、バンドの外の人間、いわゆるマネージャー的立ち位置の人間との出会いを望んでいる。そんな都合の良い人間がいるかよ、という自戒はあるものの、そんな都合の良い人間を見つけられたミュージシャンが上手に活動できている感覚があるので、きっとない話ではないのだと思う。

 

次のライブ、次の楽曲、バンドのスケジュール管理、プロモーション、そしてYouTube、ゼロカラコンピ、オトナリダンギ……最近の私は「考える時間」が多く、1日の中の結構な時間ぼーっとしている。文章も長く散文的になりがちだし、修飾語の量も心なしか増えている気がする。でも決して嫌ではない。むしろ答えのない問いについてぐちゃぐちゃと考えるのは昔から好きで、最近はそれが仕事の中心になってきて心地が良い(Cubaseレッスンを減らしてよかった)。私の悩みには「こうすれば正解」という方法論がない。小手先のテクニックやハック術はいくらでもあるけど、それらは容量用法を守らないと身を滅ぼすので程々に。常に未来の可能性を考え続けること、そして、脳内を頻繁に出力してトライアンドエラーを繰り返すことが大切だと信じている。

最近よく思うのが、対話ができる相手が欲しい。私と同じ解像度で思考ができて、かつ、口だけでなく行動もしている人間。自分が高尚な人間だから見つからないと言っているのではなく、単純に、同じシチュエーションの人間、すなわち「同類」がいなくて困っている。YouTube仲間で音楽活動を本気でやっている人はいないし、音楽仲間でYouTubeを本気でやっている人はいない。困った。私は誰と話せばいいのだろう。

一人でずっと考え続けるのは良くない。思考が内向きに内向きになっていくから。しかし、一人でずっと考え続けることでしか物事の本質には近づけないし、一回内向きになる経験はなんならしておいたほうがいいと思う。考えて考えて考え抜いて、いくつかの自論と仮説を持った状態で、同程度の”知能””経験””実績”を持った人間と語り合うのがこの世で一番楽しい飲み会だろう。私は、そういう飲み会をしたことがないかもしれない。「同類」がいないから。いつか同類と楽しく酒が飲みたい。YouTubeを主戦場に、どこにも所属せず自主レーベルで音楽活動をし、講師からミュージシャンにイメージを変えようとしているロックミュージシャンと。

 

「他人の意見を聞きなさい」という意見が嫌いだ。他人の意見が自分の思考の外側にあったことなどほぼない。他人はしばしばアドバイスをくれるが、私がとうの昔に考え抜いて結論を出したアンサーであることが多い。そこに意外性や啓発力などかけらもなく、あるのは「無駄な時間だったな」という感覚のみ。稀に「なるほど、その発想はなかった!」というありがたいアドバイスを頂戴することもあるが、そういうのは大抵、自分より”知能””経験””実績”の全てが秀でている圧倒的に格上の人間がくれるものだ。基本的に99.9%の人間のアドバイスは聞く必要がない。私も、あなたもだ。自分より自分のことを真剣に考えている人間などいないのだから。

今の話が顕著な例だが、私の文章は全て、「人は自分で自分のことを考え抜く能力がある」前提で組み立てられている。注釈や釈明の類は極力しないように気をつけているし、一部の層に向けたアフターフォローもほとんどしない。文章に贅肉をつけるのが嫌いだからだ。

しかし、私の前提の外側の存在、すなわち、「自分で自分のことを考えられない人」が世の中には多数存在する。思考能力が低かったり、自己肯定感が低かったり、集中力がなかったり、単純に読解力に欠けたりする人は、自分の思考や選択、ひどい時にはコンテンツの感想を他人に委ねてしまう。私はそれを、とても悲しいことだと思う。

私は、できるだけそういう人間とは関わらずに生きていきたいと願っている。「考えられない人」に寄り添う人や機関やコンテンツなんてごまんとあるのだから、わざわざこんな私の元に来ないでほしい。うちは「あなたは自分で自分のことを考え抜く能力がありますか?」にYESと言える人間だけを相手にしてコンテンツを作っているので、NOと答える人が来ても楽しめないと思うし、なんなら不快に感じるはずだ。ゼロカラシティのブログなんてまさにそれだ。できるだけ遠くで暮らしてほしい、自衛のためにも、そして私と私の周りの人間のためにも。

ここの棲み分けができていないから、今のSNSは息苦しいのだと思う。特に最近のXは見てられない。いよいよ笑えないレベルで治安が終わってきていると感じる。イスラム教徒がキリスト教徒を「豚を食うなんて信じられない!」といじめて、いじめられた人が自殺してしまった後でキリスト教徒による逆襲が始まる、例えるならそんな、居心地の悪い世界になった。もっとみんな”集落”を作るべきだ。同じ趣味嗜好を持つ人だけの小さな集落。SNSは本来もっと大学のサークルのような場所であるべきで、国家のようなはたらきをするべきではないと私は憂いている。

そういう意味では、私はYouTubeの一方通行なコミュニケーションがとても好きだ。YouTuberが自身の興味のあるコンテンツを発信し、共感する人だけが視聴者になる。寄ってらっしゃい見てらっしゃい、でも興味がないならお帰りください。そのドライさが好きだ。そうやって作る小さな集落の治安を維持し、少しずつ人を集めるのが私の仕事だと言える。

PAGE TOP