こんにちは!ゼロカラカンパニーの月岡です。
ゼロカラシティにご参加いただきありがとうございます。
このコラムは、ゼロカラシティのメンバー限定コンテンツです。内容はメンバー以外に漏らすことのないようお願いします。
さて、今回のテーマは『数にはこだわれ。でも毒は抜け。』です。
月報をやめます
まずはお知らせです。
毎月末にこの場を借りて書いていた「月報」を廃止します。理由は主に3つで、
・月報の内容は定例会を見ていればわかる(しかも最近は定例会のざっくりまとめを毎回書いている)
・並べてブログを読んだときに「ハズレ記事」感が無視できない
・私が書いていて楽しくない
からです。ご了承ください。多くの人にとっては前向きなアップデートになっているのではないでしょうか……?
これからは毎週新規性のある記事を書いていきます。改めてよろしくお願いします!
ではどうぞ!あ、そういえば先週から記事の中身では敬語を使わないことにしたのでそちらもご了承くださいね!
とっても大事な「数」のはなし
この記事では、YouTubeの再生回数やチャンネル登録者数、はたまたSNSのフォロワー数や音楽サブスクの再生回数など、ネット上の「数」について私見を述べていこうと思う。
まず私の立場から述べると、数という評価基準は必ず大事にするべきだと思っている。
よく、
・コンテンツの価値は数では測れない
・伸びなくてもいい物を作ることこそが大切だ
という論調の人を見かけるが(特に音楽界隈では多く見かけるが)これは甚だ都合のいい、防衛本能にまみれた認識であると言える。
「いいものは伸びる」
という法則は間違いなくある。断言する。
広大なネットでは、見つけてもらえない可能性ばかりが取り沙汰されるが、実はコンテンツのほとんどは、必ず誰かの目には触れている。例えばYouTubeならサムネを見て、音楽ならイントロを3秒聴いて、人はそれを最後まで享受するかどうかを決める。そして人には「心が動いたものを人に伝えて共感を得たい」という心理があるため、いいものは拡散され、多くの人の目に留まり、各々がまた是非を決める。こうして、ネットの「数」は伸びていく。
ところで、数学には「対偶」という概念がある。
「AならばB」が成り立つとき、「BでないならばAでない」も成り立つ
というものだ。例を挙げると「2で割れるなら偶数である」ので「偶数でないものは2で割れない」とか、「新宿区民なら東京都民である」ので「東京都民でない人は新宿区民ではない」とか。
当然、「いいものは伸びる」を認めた場合、対偶である「伸びていないものはいいものではない」も成り立つ。私は現在この考え方でインターネットと付き合っている。自分の動画が伸びなかったら、それはいいものではなかったと判断する。自信がどんなにあっても、作るのに何時間かかっていても、「いいものではない」という事実からは逃げられない。
クリエイターとして飯を食いたいなら、この地獄と向き合っていくのが義務である。
だからこそ、世に蔓延る「伸びてなくてもいいものはいい」という論調に私は賛同できない。伸びてないなら、それはいいものではないからだ。「全然伸びてないけど、絶対この曲はバズるのに」と言っているあなたの曲は、いい曲ではないのだ。
勘違いしてほしくないので念のため補足しておくと、私は「コンテンツの良し悪しは数字で”しか”判断できない」と言っているわけではない。「コンテンツの良し悪しを判断する材料の一つとして数字がある(そしてそれは非常に強力で冷酷な判断基準である)」と言っているにすぎない。
例えば、ゼロカラコンピ関連の動画再生数は通常動画と比べて少ないが、だからと言って、ゼロカラコンピがいいものでないとは思わない。ゼロカラコンピは有料コンテンツであるため、無料コンテンツである通常動画と再生回数という尺度で比較するのはそもそも間違っているし、ゼロカラコンピ的な試みには前例がないので、まだ評価基準が存在していない。ゼロカラコンピが「いいもの」か「いいものでない」かは、きっと10年後くらいに答えが出るはずだ。
ということで、前置きが長くなってしまったが、私は「数字にはこだわるべき」という強い信念を持っている。数字にこだわらないなら、無理にネットに公開する必要はないと思っている。伸びなくてもいいと思っているなら、それは心のどこかで戦うのが怖いと思っていることの表れなので、数字で殴り合う血みどろの土俵に上がってこないほうがいい。心を怪我して病院送りになるのが関の山である。
……さて、偉そうに散々語ってしまったが、私もまだまだ数を取れていない人間として、自らを奮い立たせて創作を続けていく所存だ。シティの私たちは仲間であると同時にライバルでもあるので、切磋琢磨しながらみんなと楽しい地獄を彷徨っていきたい。
ネットは数の地獄である。そんな場所にコンテンツを出す時点で、数から逃げることはできない。
この前提のもとで、ここからはあえて「数にこだわらない」ことの重要性も書いていこうと思う。
数と優先順位
結論から書くと、
数にこだわるのはマストだが、数を第一優先にする必要はない
と私は思っている。
「別に大人気にならなくてもいいから、細々と創作活動を続けていきたいんだよボクは」という層も、これは間違いなくいるだろうし、彼らが間違っているとはまったく思わない。むしろ非常に健全な創作意欲だと思う。
そういう層は、数を第一優先にしてネットでの発信を続ける必要はない……と、ここまではあたりまえすぎて価値ゼロの話だが、ここからが本題だ。
私は、数にこだわる人間も、数にこだわらない場所を作るべきだと思っている。
難しい話に聞こえるかもしれないが、噛み砕いて説明するととても単純なことを言っていて、要するに「毒抜きは適度にしましょうよ」ということだ。
数を追い求める創作活動は地獄である。ありふれた表現で恐縮だが、本当に、自分を見失いそうになることがよくある。なぜなら、数を追い求めれば追い求めるほど、自分という存在がノイズになっていくからだ。
例えば、私のやっているDTM解説動画に、私のパーソナリティなど必要ない。情報を的確に伝えられさえすればいいので、「月岡彦穂み」はノイズになるのである。YouTube初期はこれがわかっておらず、何度も失敗を犯してきた。自分らしさを出していいのは駅前広場ではなく個室居酒屋である。
また、数を取りにいこうとすると、どうしても表現が過激になりがちである。人はネガティブな表現に食いつきやすいという特性がある。例えば、「お金貯めたい人は見てください」よりも「お金貯めたくない人は見ないでください」の方が、キャッチーで気になってしまうものである。昨年私が一番伸びていた時期は、悪魔に魂を売るつもりでこのテクニックを乱用していたが、次第に本当に悪魔に魂を侵食されるのを感じた(曖昧な表現で申し訳ない。もっと別の言い方をすれば、プライドがすり減っていくのを感じた、とか?)。多分あれを続けていたら、私は耐えられなくなってYouTubeをやめていたと思う。
このように、数を追い求めるということは自分との過酷な戦いだ。これ「だけ」を続けられるほど、人間は強くない。悪魔に喰われた人間を私は何人も見てきた。誰しも適度な毒抜きが必要なのである。
悪魔に喰われないように毒抜きとして私が去年取り組んだのが「サブチャンネル」と「カラクリラジオ」、そして、このブログだ。
サブチャンネルでは、私がやりたいことをやると決めている。もちろんネットに公開している以上、数は大事にしているし、少しでも伸びるようにとサムネもしっかりと作っている。何度も言うようにこれはネットを使う上での義務である。しかし、メインチャンネルではいつも気にしている「みんなはこれを見たがるかなぁ」「これを出したら失望されないかなぁ」という指標は一切持っていない。
カラクリラジオもそうだ。あれが10000回再生行くとは思っていない。でも、1000回はいきたい。1000人になら刺さるコンテンツだと自負しているからだ。素の自分を出して友達とゲラゲラ笑っているだけの動画を週一で出し続けることが、私にとってかなり毒抜きになっている。
また、なんとこのブログに至っては閲覧数を見ていない。
このブログは私の出しているコンテンツの中でもかなり特殊で、それはなぜかというと、これがネットに公開していないコンテンツだからである。有料会員だけが読めるコンテンツなので、記事の閲覧数はゼロカラシティのメンバー数の二次的な要素でしかなく、閲覧数自体にあまり意味はない。だからこのブログはやりたい放題書かせてもらっている。サブチャンネルなんて比じゃないくらい、好き放題あーだこーだと毎週書いている。これを書いたら角が立つかな、とかも一切考えていない。
これが楽しい。まぁ楽しい。正直、私が今一番のびのび自己表現できているのはこのブログだと思う。読者が日曜日を待ち遠しく思っているように、私は水曜日を待ち遠しく思っている。
これからも私はブログの閲覧数を見ないと思う。刺さる人にだけ刺さればいい。コメントしたい人だけしてくれればいい。のびのび書いているからこそ、ブログへのコメントはいつも楽しみにしている。今日はちょっとコメントしづらい内容だったと思うが、みんなも書きたいことを素直に書いてもらえたら嬉しい。
散らかってしまったので、最後にまとめっぽいものを書いておくと、
・ネットにコンテンツを出すなら数には絶対こだわるべき。
・でも数を第一優先にしないコンテンツも持っておくべし。なぜなら毒抜きになるから。
では、来週もお楽しみに!