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脱X
Xを見るのを辞めた。
ずっとXを辞めたいと思っていた。面白くないからだ。私がXに求めていた「面白さ」は
・ニュース
・友人の近況
・エゴサ
・仕事のDM
の4つだったのだが、そのどれもがもはやXでは満たせないと感じた。Xにあるのは愚痴と不満とゴシップと揚げ足取りだけで、ポジティブな投稿は一切鳴りを潜めてしまい、ずっと曇天が続いているような息苦しさがあった。Xは開くだけで疲れるSNSに成り果てて、もはや、私の好きなXではなくなっていた。
先週のブログで書いた「ユーザーはサービスが好きなら使い続け、嫌なら辞めればいい」という絶対法則は、もちろんXの「ユーザー」である私にも当てはまる。だから私はXを使うのを辞めた。単純な話だ。Xに文句があるならXを使わなくなればいい。辞めるときはドキドキするが、意外と生活は変わらないし、特別困ることは何もない。
私がXを辞めて被害を被るのはXの運営だけだが、私にはそんなこと関係ないし、イーロンマスクが困ろうが知ったことではない。そもそも、私1人が辞めたところで、Xには何のダメージもない。海に小石を投げ入れるのに等しい。本来「サービス」と「ユーザー」の関係性はこれくらいドライであるべきだ。イーロンマスクは全責任を1人で背負って全ての行動を自分で決めているのだから、外野である「イーロンマスク以外の人間」がとやかく言うのはナンセンスである。私はXを辞めるときにイーロンマスクにDMを送ったりしない。
Xを辞めたと言っても、正確にはタイムラインを見るのを辞めただけで、ポストは続けている。スマホでXを開くと最初にタイムラインが出てきてしまうので、必ずPCブラウザでログインするようにしている。PCブラウザはプロフィールを最初に開くことができるからだ。その画面でポストだけして、すぐにタブを閉じればタイムラインを見ることはない。ポストだけは今のところデメリットよりメリットが勝っているので、これが私とXを繋ぐ最後の糸だ(でも長くないような気はしている)。
先にあげた4つのメリットも、なくなったところで全然困るものではなかった。ニュースはニュースアプリで知れるし、友人の近況は気になるなら直接会えばいい。エゴサができないのは少し痛いが、自分の評判を気にしていたらこれからの活動(先週書いたように私は今後DTM講師ではなくアーティストとしてブランディングしていく)に支障しかないことは安易に想像できる。DMは99%がカスだからむしろなくなって最高だ。きちんとした依頼はHPのお問い合わせフォームから来るのだ。匿名で誰にでも何でも言えるDMというシステム自体、狂っていると思う。知人以外にDMを送る人間の気がしれない。
タイムラインを見なくなってから、明らかに1日の時間が増えた。純粋にタイムラインを見ていた時間はもちろんのこと、タイムラインを見た後で「見たものについて考えたり話したりする時間」がなくなったのが大きい。どうでもいいことを熟考したり、関係ないことにイライラしたりしなくなったのは、精神衛生上もとても大きな効果があった。
自分で思っている以上に、ネットで「見たくないもの」を見るのはストレスなのだと気づいた。ポストの内容はもちろんのこと、言葉遣い、文章構成、プロフィールなど、自分にとっての「嫌さ」はそこかしこに潜んでいる。気づかないうちに少しずつ心がダメージを受けていたのだと、「見たくないもの」を見なくなってからようやく気づくことができた。SNSがなかった高校生の頃まではこんなに健やかな気持ちで生きていたんだっけ?だとしたらこの10年余り、私はキツめの縛りプレイを自分に課していたことになる。今日からイージーモードだ。
精神状態を正常に保つのは、長く仕事を続けていく上で大切なことだ。一番と言ってもいいかもしれない。精神状態が崩れる原因は大抵の場合、他人との関係の中にある。私の仕事は「他人」がほぼすべてネットの中におり、99%は「いい他人」だが、残り1%の「嫌な他人」の声は大きく、よく響く。1%の人間のために、99%の善人がダメージを負うことがあってはならない。まして私がダメージを負うなど言語道断だ。私が1%のせいでおかしくなってしまったら、99%がかわいそうじゃないか。
ところで、私はずっと「なぜ、日本はこんなに識字率が高いのに文章を正しく読めない人が乱立しているのか?」という議題に興味がある。
「文章を正しく読む」というスキルは、
・事実と感想を切り分ける力
・行間を正しく読む力
・文章が書かれた状況や背景を読む力
などなど、挙げればキリがないが、様々な基本スキルで構成された複合スキルである。
世の中には、文章が正しく読めない人がたくさんいる。そしてその数は想像より遥かに多い。およそ一クラスに一人は「文章が読めない人」が存在するらしい。悲しいがこれは事実である。
ネットでの仕事は往々にして薄利多売である可能性が高い。そして、多売をすれば必ず「文章を読めない人」に商品が届く(あるいは買われる)ことになる。これはシステムと分布の関係上どうしても仕方のないことだ。
毎年多くの自営業者が「文章が読めない人」によって潰されている。能力のない人間が、能力のある人間の足を引っ張っている。由々しき事態だと思う。そもそも、自営業者にとって文章が読めない人間は天敵だ。彼らには論理が通用しない、かつ、扇状的な文章で同類を集める能力に長けている。それらの能力は、薄利多売のネット自営業者にとって弱点中の弱点である。
これはあえて断言するが、すべての炎上は「読めない側」が起こして「同類」が拡散している。炎上とはすなわちエコーチェンバーである。小さな世界で少人数が盛り上がっているトピックを、まるで世界全体で共有されているかのように錯覚してしまう現象こそが「炎上」の正体だ。その錯覚を利用すれば、インプレッションを稼いで一儲けすることも、気にいらない人間を私刑にすることもできる。しかし、それらは極めて愚かでくだらないことだ。炎上を利用して行動を起こす人間は、自分が馬鹿者共を束ねる馬鹿者の王であることに気付けていない。それに気付ける知性と教養があるならば、炎上などというくだらない錯覚に身を委ねて悦に浸る自分が恥ずかしさで一杯になって、耐えきれずアカウントを消してしまうだろうから。
しかし、インターネットを利用するすべての人間に、ネットリテラシーを持たせるのは不可能だ。人間は生まれつきすべての能力に限界値があり、倫理観や言語感覚は家庭環境に大きく依存する。生まれてくるすべての子供を生後0日で施設に隔離し、育児の高級資格を持ったプロが5年ほど子育てすれば少しはマシになるだろうが、それはあまりに非現実的すぎる。
無理なのだ、すべての人間が一定のリテラシーを持つことは。それは受け入れた上で生きていくのが、ネットで仕事をする人間の宿命である。
ただ、飲食店に出禁というシステムがあるように、ネットにはブロックやBANという機能がある。今後は積極的に使っていこうと思う。「私はあなたのことが嫌いなのでもう関わらないでほしい」ときちんと表明する方が、お互いに損がないはずだ。事業者は客を選べるということをもっと啓蒙していかねばならない。私は「文章が読める側」の味方であり、世界にはもっと棲み分けが必要なのだ。ヴィーガンとボディビルダーが一緒に暮らすのは難しい。改善策を探る必要などない。やるべきことはただひとつ、離れて暮らすことだ。