28歳はこんな生き方をしてみたい

こんにちは!ゼロカラカンパニーの月岡です。
ゼロカラシティにご参加いただきありがとうございます。

このコラムは、ゼロカラシティのメンバー限定コンテンツです。内容はメンバー以外に漏らすことのないようお願いします。

 

さて、今回のテーマは『28歳はこんな生き方をしてみたい』です。

 

28歳になりました

先日28歳になった。祝ってくださったみなさんありがとうございます。

誕生日は月曜日だったのでゼロカラシティの定例会があった。この日はラジオよろしく1人で喋り続けるという配信だったが、あまり上手く話せた気がしなかったので、ズルい気もするがこの記事で少し補足させてもらうことにする。

テーマは「28歳の抱負」だ。いや、抱負というと大袈裟かもしれない。「こんな感じで生きていたいなぁ〜」くらいの独り言としてゆるりと読んでもらえたら嬉しい。

 

抱負①:多様な価値観を知る

ちょっとすかしてるな。これは言い換えると「いろんな人に会っていろんな気持ちになりたい」だ。

 

3年とちょっと、1人で働いてきた。インターネットの仕事なのでほとんど生身の人間と会っていない。主要な仕事であるCubaseレッスンも非対面だし、ゼロカラコンピだってゼロカラシティだって、もちろんYouTubeだってそうだ。他人はいつだって画面の向こう側にいた。

そんな生活を続けていたらいつしか世界が狭くなってしまった。自分を脅かす人間もいない代わりに、予想外の事件も起きない。淡々とYouTubeを更新し、淡々とレッスンをして、淡々と曲を作る。歌詞の雰囲気ももう2年くらい同じ感じだ。

 

仕事に飽きてきたなんてことはまったくない。絶望もしていない。むしろ未来には結構期待している。ただ、空虚な気持ちになることが多くなった。ヒトは社会的動物であるという事実が静かにのしかかってくるようだ。

 

2022年は音楽ユニット「SUISO」の活動を休んでいた。ゼロカラカンパニーに集中するためだ。この選択は結果的に間違っていなかったと言えるが、SUISOがいかに社会と繋がるための糸となっていたか、身をもって実感した。

「人酔い」することが増えた。もともと1人の時間は好きだったがますます好きになった。いや正確には、人といる時間が苦痛になった。朝から晩まで人といるとチックが強く出るようになった。

 

このままではいけないと思う。なんかこう、人間としては楽しく暮らせていても、ヒトとして大切な部分を犠牲にしているような漠然とした焦りがあった。自分が社会と繋がっている実感をもっと得たかった。

 

最近は意識して外に出るようにしている。発見したことがあって、会話などがなくても、カフェで他人に囲まれているだけで随分と孤独感は紛れてくれる。「生身の人間に囲まれることでのみ刺激される満腹中枢」のようなものが、多分ヒトには備わっている。同族の集団は訳もなく心安らぐ。ヒトってどうしようもなく動物だな、とおかしくなる。

この記事もカフェで書いている。最近は毎日のようにカフェやらコワーキングスペースやらに通っている。左隣の女子大生はディスプレイを2枚広げてレポートを作成しており、右隣の女子高生は数学の宿題に取り組んでいる。背後ではスーツ姿の男性が3人で談笑しており、窓の外では横断歩道を学生たちがふざけて渡っている。その中で私は文章を書いている。自分が社会的動物であると実感できてとても気分が良い。

 

早く4月にならないかな。専門学校が始まるからだ。また1年生が入ってくる。

私は専門学校の仕事が好きだ。18歳の学生と話していると、加齢とともに生えてきた鱗がポロポロとこぼれ落ちていくような感覚を覚える。彼らは例外なく、傲慢で、無鉄砲で、自信過剰だ。そして私はそんな彼らが好きだ。早く会いたいものだ。

 

しばらく負の感情を抱いた記憶がない。他人に怒ったり、失望したり、嫉妬したりするのはヒトの特権だ。ネットの中の相手に対してはそういった感情もどこか空虚で不完全燃焼だ。安っぽい言葉だが「本当の怒り」や「本当の失望」は画面の向こうには抱けないのかもしれない。

私が最後に怒ったのはたぶん3年前の野外フェスで、SUISOのサポートギターの男が自分勝手な演奏をしたときだ。あのときの私は自分のステージを汚された怒りに打ち震えていた。不快だったはずなのに、またあの巨大な感情を味わいたいと思っている自分に驚く。怒りとは、生身の人間と本気で接した証なのかもしれない。

 

抱負②:正直に生きる

別にいま嘘をついているわけじゃない。私は、私の力でDTMの世界を変えたいと本気で思っている。

しかし「嘘をつかない」ということと「本音で生きる」ということは別物である。私は嘘はついていないが、本音を隠すことはある。いわゆる「政治的判断」として、これは言わないでおこうと判断することもまあまあある(念のため書いておくとみなさんに不利益になるようなことは隠していません)。

 

例えば、私が「この音楽は嫌い」と言うところは見たことがないと思う。これは「言わないようにしているから」だ。でも本当は私にも音楽の好き嫌いがある。しかし、ゼロカラコンピというDTM初心者向けのイベントの主催者である以上、参加者が傷つくようなことは言いたくない、というか、言う意味がない。だから私はネットで誰かの音楽に「嫌い」と言ったことはない。

でもそれって、本当に正しいことなのかな。例えば100杯のラーメンを食べて全部に「美味しい」というグルメリポーターは信用できない。1〜2杯くらいは口に合わないのが当然で、全部が美味しいなんてことはありえないはずだ。そういうリポーターは世間から101杯目を食べさせてはもらえないだろう。

 

子供のころ、八方美人という言葉の意味がわからなかった。全員にいい顔をすることの何が悪いの?と思っていた。でも今は八方美人ってめちゃくちゃしょうもない人間だな、と思う。「これはいい」という台詞に重みが生じるのは「これは悪い」と言える人間だけだ。例えば星野源や米津玄師はギンギンに尖った感性を持つからこそ、あそこまで影響力のある人間になれたのだろうし、音楽にも含蓄と深みが出せる。

私は自分のことを八方美人だと思う。それは今後のゼロカラカンパニーのために非常によろしくないことだ。これからは「悪い」と思ったものには「悪い」と言うようにしたい。

……とはいえ、私は評論家という人種が嫌いなので(嫌いって言えた!)、偉そうにモノゴトを判断する人間にはなりたくない。愛のある「嫌い」が言えるようになりたい。毒舌キャラになりたいわけでも、尖ったカリスマになりたいわけでもなくて、私はただ、輝かしい一雫の「好き」のために「嫌い」が言える人間になりたいのだ。

 

それは、ゼロカラコンピで賞やグランプリなどという大それたことをしている人間の宿命でもあると思う。全部に「好き」と言う人間の与える「好き」に価値はない。私が「嫌い」を表明することで、相対的にグランプリの価値はもっと上がるはずだ。アンケートで「グランプリや賞の基準がわからない」という意見が増えてきたいま、私も態度を改めるべきだと思う。全曲コメント動画をやめたのにはそういった背景もちょっとある。

そういえば、自分がグランプリや賞を獲ったことがないのに制度を批判する人間が一定数いるが、私の感覚ではそれは「ダサい」と思う。メラさんや藤井蓮さんが言うならまだしも、あなたに言われても……と思ってしまう。食べたことのない料理を悪く言うのはよろしくない。私は、与えられた土俵で場所で結果を残せる人間を心から尊敬している。

やるぞ!

いま文章を見返したら少し思い詰めているように読めますね。全然元気ですよ。仕事は普通に楽しいです。

私はまだ若い。年齢的にも、精神的にも。だからこうして迷うし、感情をネットに垂れ流す。これが惨めであるという感性も私は同時に持ち合わせている。30年後の自分がこの記事を読んだら「日記に書けよ」と思うかもしれない。

でも、私は正直に生きたいし、人生に意外なことがもっと起こってほしい。だからこうして、天秤にかけた上で動画や文章をネットに公開している。そして、1人でも多くの人間に気づいてもらいたくてムラムラしている。音楽を作って発表するような人間は、みんなある程度同じ下心を持っているものだと、勝手に思っている。

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