こんにちは!ゼロカラカンパニーの月岡です。
ゼロカラシティにご参加いただきありがとうございます。
このコラムは、ゼロカラシティのメンバー限定コンテンツです。内容はメンバー以外に漏らすことのないようお願いします。
さて、今回のテーマは『根拠のない自信も大切かもしれない』です。
地元での飲み会にて
先日、東京でBUMP OF CHICKENのライブを見て、その足で久しぶりに静岡県の実家に帰省した。
(↑とんでもなく広かった有明アリーナ)
この帰省には、ひとつ大きなイベントが控えていた。それは「恩師との飲み会」である。中学の頃の担任教師及び同級生らと、13年ぶりに会って酒を飲むというイベントだ。私はこれをかなり楽しみにしていた。
居酒屋の個室に通され、昔話に花を咲かせた。正直中学時代のことなんてほとんど覚えていなかったのだが、地元で、しかも当時の友人らと話していると不思議と記憶が蘇ってくるのが面白かった。
私が覚えていない私の話を、友人は昨日のことのように覚えてくれていて、それがむず痒くも嬉しかった。友人によれば、私が園芸委員会だった頃、私のクラスの花壇だけ完全に枯れていたらしい。もっといい話ありませんか?
飲み会の話題は、昔話から徐々に「最近どう?」にシフトしていく。この飲み会、大変面白いことに私以外の4人が全員教員だった。地方公務員4人と訳のわからぬ自営業者1人。よく呼んでもらえたものだ。
みんなが私の近況を聞きたがってくれたので、よしよし、ここで「へぇ〜、そんな生き方もあるんだ」と言わせるのが私の使命だと勝手に意気込み、大学を出てから起業して今に至るまでを熱弁させてもらった。
私は大学を卒業して、普通に一般企業に就職している。音楽とは何の関係もない、都内にある普通の学習塾だ。そこで1年と少し働いて、ソワソワしてきたので会社を辞め、独立し、ゼロカラカンパニーという屋号で個人事業主(=フリーランス)になった。そこから様々な苦境を乗り越えつつ、4年目にあたる2023年も、何とかかんとか生き延びている。
概ねこのような話をした。すると恩師はこう尋ねてきた。
「やっぱり自信があったから独立したの?」
これに対し、私はほぼ即答で
「自信はありました!」
と返したのだが、今にして思うと、なぜ私は自信があったのだろう。今日はここを掘って行こうと思う。
根拠のない自信
ゼロカラカンパニーを起業したとき、確かに私には自信があった。
しかし、ゼロカラカンパニーは創業後2ヶ月連続で売上「0円」を叩き出し、その自信は完全に打ち砕かれた。トホホと打ちひしがれながら、私は中高生向けの家庭教師のアルバイトを始めた。それで何とか食い繋ぎ、YouTubeの登録者が伸びるのをひたすら待った。
アルバイトを辞めたのは意外と最近のことだ。2021年くらいまでは細々と家庭教師をやっていた。2022年からはYouTubeから入ってくる仕事だけで飯が食えるようになり、やっと本当の意味でフリーランスになれた気がした。
今の私には自信がある。それは、上に書いたような経験に裏付けされている。ゼロカラカンパニーを文字通りゼロから自力で成立させたから、私には自信がある。これはとても健全な「根拠のある自信」だと思う。
しかし、起業当時の私は、一体何を根拠に「自信」があったのだろうか。
今思えば、あれは「根拠のない自信」だった。自信のフリをしたハリボテの虚栄心だった。
Cubaseレッスンは売れると思っていた。なぜなら自分の「音楽スキル」と「教育スキル」に対して自信があったからだ。私はバンドも人気だったし、授業の評価も常にナンバーワンだった。
しかし、それらのスキルが「Cubaseレッスンを売るスキル」とはまったく別物であることに、当時の私は気づいていなかった。Cubaseに詳しくて教えるのがうまかったとしても、お金を払って依頼してもらえるかどうかは別問題だったのだ。
私の自信は、勘違いだった。
でも、私は勘違いできてよかったと思う。勘違いがなかったら、ゼロカラカンパニーは存在せず、こうしてゼロカラシティメンバーに向けて記事を書くこともなかったからだ。
というか、そもそも「根拠のある自信」なんてあるのだろうか?
例えば「YouTubeでDTMの話をするスキル」はそれ以外の場所にも応用が効くスキルなのだろうか。昔「音楽と教育のスキルがあればきっとうまくいく」と盲信していた頃と、本質の部分は変わっていないのではないだろうか。
そう考えると、自信と呼ばれるものは、ある限定的な状況においてのみ効力を発揮するスキルであり、他の類似するチャレンジ、例えば、YouTubeがなくなった後のプラットフォームに対応するとき等には、まったく役立たないスキルである可能性はないだろうか?
あと、「まったく同じチャレンジ」は存在しない。同じことをやっていても時代と共に周囲の評価は変わるし、そもそも同じことにトライすることをチャレンジとは呼ばない。成功するか失敗するかわからないことにトライするからチャレンジなのであって、結果がわかっているトライはチャレンジではなくリピートだ。
だから、すべてのチャレンジに「根拠」なんてない。あるチャレンジの結果を裏付けする根拠があったとしたら、それはチャレンジではなくリピートである。そして一見するとまったく同じチャレンジであっても、時代も、世論も、景気も、体力も、熱量も、何もかも「まったく同じ」ということはあり得ない。私が今からYouTubeを始めても、今とは違う結果になっているはずだ。
しかし一方で、根拠のない自信だけで突っ込んでも大丈夫かというと、それは少し違うと思う。
例えば、私の起業時の自信である「自分は音楽のスキルも教育のスキルもある」は、結果的にしっかりと活きてくれた。当時の私には「集客」のスキルがなかったため、音楽や教育のスキルを発揮する場所が作り出せなかったのだが、場所ができてからは両スキルがあったからこそ何とかなってきたのだ。
また、自信がある人間の方が魅力的に見える、という側面もある。
仕事柄、様々な音楽関係の人間を目にするのだが、彼らの中には大きく2種類「まぁ自分なら何とかしてみせますよタイプ」と「できるかわからないけどやってみますタイプ」が存在する。当然、仕事を頼みたくなるのは前者である。前者の自信に根拠があるかどうかなんてパッと見ではわからない(ポートフォリオを見れば一瞬でわかるけど)ので、ハッタリの自信でもないよりは断然マシなのである。
後者はとても真面目だとは思うが、一緒に何かしたいとは思わない。負のエネルギーを感じる人間からは、私はできるだけ速やかに距離を取るようにしている。
それでいうと、カラクリラジオ相方の長利くんは圧倒的に前者だ。彼は300万円かけて自宅をレコーディングスタジオに改造したが、お客さんが最初から約束されていたわけではない。「この場所にこんなスタジオがあったらきっとみんな来てくれるだろう」くらいの雰囲気でいそいそと作っていた。これは根拠のない自信がなければできない所業である。結果的に、長利くんのスタジオは大繁盛らしい。
(↑カラクリラジオぜひ聞いてね!)
何かを始めるときには
自信はあった方がいい。でも根拠はなくたっていい。
そりゃ「根拠のある自信」があるに越したことはないが、その根拠はよく考えれば関係ないスキルかもしれない。ハリボテでもハッタリでも結局、結果を出した人間に根拠は後からついてくるものだ。
先日取引先の社長(61歳)とランチしたときに、彼の全身からみなぎるエネルギー量に驚いた。駅前で若者を100人引っ張ってきても届かないであろう高エネルギーを、還暦を超えた初老の男性が纏っていた。いまだに何社も並行して動かすバリバリの経営者である彼は、きっと「根拠のある自信」に満ちているのだろう。
彼のようになるには、とにかく実績を積み上げる他ないと思った。最初はハッタリでいい。それが徐々に「根拠のない自信」になっていき、最終的に経験値が一般人を遥かにオーバーしたところで「根拠のある自信」になっていくのだろう。
そこまで行けるのに何年かかるかわからないが、私も経営者の端くれとして、これからも色々なことにチャレンジしていきたいと思った。
私はもうすぐ28歳になる。まだまだ先は長いので、できるだけついて来てくれたら嬉しい。DTMerにとって素敵な世界を作るために、私にできることはまだまだあると思うので。